日本画について①

2019年4月30日

横山大観作「屈原」

※画像は横山大観作「屈原」

本ホームページでは絵(主に日本画)について歴史や道具、その描き方等について色々とご紹介をしていければと考えております。
その際に、基本的には歴史に基づいてご説明させていただきますが日本画の定義などにおいては筆者の主観(主に実体験)等も入りますがご了承ください。

「日本画」と一言で言われても聞き馴染みのない一般の多くの方にはその定義が全然わからないという方が大多数だと思います。
字面や響きからなんとなく花鳥画や水墨画、金壁障壁画や屏風絵の様などこか伝統的であり、尚且つどこか古臭い過去の遺物の様なイメージを持たれる方が多いのではないでしょうか?
実際のところはともかく、私の周りの方々の話を聞いてもそういった印象を持たれる方が殆どです。 では日本画とは本来どういった物なのかを順を追って説明していきたいと思います。

目次

日本画の歴史

落ち葉 弱法師

※上は菱田春草の「落ち葉」
※下は下村観山の「弱法師」

まず、「日本画」という言葉自体が明治時代に誕生した比較的新しい言葉であるという事を多くの方はご存知無いのではないでしょうか。
この「日本画」という言葉の語源は1882年当時に東京帝国大学(現:東京大学)で教授を務めていたアーネスト・フェノロサが講演で用いた「Japanese Painting」という言葉が語源となっております。
ですのでその言葉が使用される以前の日本人には日本画に対しての特別な文化的な認識等は無く、只々日常の中に存在している当たり前のものとして扱われていました。
しかしそれは当然の事で、日本は非常に長い歴史を持つ国ではありますが当時世界的に見ても島国という事や鎖国等の影響等もあり、海外との交流や干渉が非常に限定的で、大きな侵略をされる事も無く自分たち独自の文化を形成し深めてきた非常に稀な国でもあります。
良い意味でガラパゴス的な国だったという事です。
それ故に、自分たちの育んできた文化が他所の国の人間から見たときにどのように映るかという客観的な視点を持っていなかったのです。
ただ、それは当然の事で人は自分と他人、男と女、日本人と外国人といった感じに自分とは違う特徴を持つ存在がいて初めて自分の存在を認識する事できるのです。
ですのでフェノロサによって「Japanese Painting」という言葉が生み出される以前は自分たちの生活の中に当たり前に存在していた「それ」が如何に特別であるかを気付くことができないでいたのです。
或いは気付く必要も無かったのかもしれません。

岡倉天心と三羽烏

  • 岡倉天心

    岡倉天心

    日本画の生みの親的存在。
    東京美術学校(現在の東京藝術大学)、日本美術院の創設にも貢献。
    東京大学で教鞭をとっていたフェノロサの助手を勤める。
    次第にフェノロサの影響を強く受けるようになり美術に興味を持つようになり、なんやかんやで東京美術学校の設立にも携わるようになる。
    後に彼が東京美術学校を追い出された際には後述の三人も学校での役職を辞任をしてまで彼を追って行ったというのですから、余程人徳やカリスマ性、先見性のある方だったのでしょう。
    その後も人生をかけて美術界の発展に貢献を果たす(1913年50歳没)

  • 横山大観

    横山大観

    日本画といえばこの人であり最早代名詞となっている存在。
    後述の観山は東京美術学校の同期生で春草は後輩にあたる。
    東京美術学校の卒業後、師の岡倉天津と共に日本美術院の創設に協力する。
    従来の日本画表現に留まらず、西洋画の技術を取り組んだ先進的な手法を試み続けて日本画の枠組みを飛び越えようと尽力する。
    第1回文化勲章受章者。
    日本美術院の「大観賞」も彼の名前から取られている。
    様々な才を持ち合わせた大観だが長寿だった点も彼の優れた才能の一つと言える(1958年89歳没)

  • 菱田春草

    菱田春草

    日本画の世界において過去にも、恐らく未来においても並ぶ者の無い最高の画家。
    天才大観をして「あれこそ天才、磨くほど光る金の瓦だった。おれなんかは普通の瓦だよ」と言わしめる程の才能。
    ただ一つ残念なのは大観の様な身体的な強靭さを持ちえなかったところです(1911年37歳没)

  • 下村観山

    下村観山

    大観らと共に天津の元で研鑽を積んだ天才画家。
    高い評価を得てはいるが他二人に比べると何故か評価が低く影の薄い存在。
    作品に関しては挑戦的な作風を試しつつも高い技術に裏打ちされた堅実なものが多い印象。
    文部省美術展覧会(現在の日展に当たるもの)の審査員を務めていたエリートであったが、天津の没後は日本美術院を再興する為にその立場を自ら捨てて日本美術院の為に尽力をする(1930年:58歳没)

日本画について① のまとめ

今回は「日本画」の語源、発祥についてお話をさせていただきました。
日本画の語源が日本人発祥ではなく外国人(西洋人)によるものであり逆輸入に近いという所がある意味で日本人らしくて面白いですよね。
「Japanese Painting」の考え方を割とすんなり受け入れたという事は日本人は当時から西側諸国的な考えを正解とする現代に通ずる思考・コンプレックスを持っていたのかもしれませんね(´・ω・`)

日本画の定義などについては次回以降に説明をさせていただきますので宜しければそちらもご覧になってください。

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